なるほど。

2004年3月23日 読書
今日、『嗤う伊右衛門』を読み返していて思ったんですが。
京極さんはあまり嗅覚に関する表現を用いないですね。
老婆の醜さを描写するくだりに、肌の匂いとか髪の臭いとかそういうものへの言及がなかったのを見てふと気付きました。
 
でもよくよく考えてみると、物事や人物の描写に積極的に香りに関する表現を用いる作家さんってそれほどいないなあ……
逆に橋本治さんなんかは嗅覚に関する表現を良く使われる方ですが、これはやっぱり作家個人の体質や嗜好に関わってくることなんだろうなあ。
鼻がいいとか悪いとかそういう問題じゃなくて、匂いの刺激に対して心が敏感に反応するか否か、という所がポイントだと思われます。
あと、匂いっていうのを表現する時にはもう文章のそこらじゅうが比喩のオンパレードになってしまうので、それを好むか好まないか、という所もネックになるかと思いますが。
それとあともう一つ、嗅覚って五感の中で最も心理に直結している感覚だという説がありますが、それ故に匂いの表現をすると酷くその描写全体がリアル……というか生臭く感じられるような気がします。これを表現における強み(リアリティ)と見るか弱み(過剰表現)と見るか、その辺りの判断も関係してくるのかなあ。
 
 
私自身はある物を詳しく描写しろと言われたらやはり香り・臭いに関する描写ははずせないタイプです。
なんせ香りフェチですから(笑)
 
 
 
ていうか、香りとか匂いを描写する文章表現って。
その物体や人物や風景が内包している物が外へとにじみでて来るときの雰囲気を書き写しているんじゃないかなあ、と思う。
人が纏う感情っていう空気とか。
咲いている花の命とか。
そういうものをすくい上げる上でとても簡単な表現手法の一つなんじゃないかな、香りの描写って。
 
 
いやだからそういう表現を好む人間が上等だとかそういう事をいいたいんじゃなくてですね。
優劣とかそういうんじゃなしに、そういうのを好む人と好まない人がいる、という単なる嗜好の違いの問題だと思うのですよ、私は。

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