いきなりですが、私は小学生のころ、それは見事ないじめられっこでした。
5年生まではまったくもっていじめの『い』の字もなかったのですが。
6年生になった途端にいじめられっこに。
はっきり言って未だに理由は分かりません。
ありがたいことに中学高校と友人・先輩に恵まれたおかげで、いじめられっこの立場からは離れる事ができたのですが。
でも、そのせいでしょうか。
未だに『いじめ』・『差別』というものが怖いです。特に、個人という物を見つめず、大括りな『属性』だけで人を選別して差別するということが、何よりも怖い……より明確に言えば憎いです。
 
 
 
母の学生時代からの友人に、在日朝鮮人の女性がいます。
母はいつもその友人の事を愛称で呼んでいたので、幼かった私はその人が在日朝鮮人の方だとはまったく知りませんでした。
その女性は喫茶店を営んでいて、幼い頃何度か遊びに行ったことがありました。
とても優しい人で、いつもいつも笑っている人でした。
でも、私が10代の後半になり、その人とあまり会うことが無くなった頃。
母がふと、こんな話をしてくれました。

「あの子、本当はお姉さんがいたの。でも生まれつき心臓が弱くてね。あんたが生まれる前に、酷い発作を起こして救急車を呼んだのよ。でも、隊員さんが受け入れ先の病院探すために無線で連絡しても、名字聞いた途端に受け入れ拒否されてね……何件も何件も断られ続けて。それで、そのまま救急車の中で亡くなったのよ」
 
 
 
人の価値ってなんでしょうか?
個人という存在を認める事は、社会という大きな視点の中では不可能なのでしょうか?
大きな大きな円の中に囲い込まれてしまったら、その中の小さな点一つに気を払うことは出来ないのでしょうか?
 
でも、せめて、個人と個人の関係の上では。
他の色々な物に惑わされずに、目の前にいるその人を見つめて欲しいのです。
そして、そういう事が出来る人間になりたいと思うのです。
それがどれだけ大変なことだとしても。

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