私の商売道具は言葉……のはずだ。
弱小ライターとして美術評論なぞ書いている。
また、オタク活動の一環としてファンノベルを書いたりもしている。
また、発表の当てもないむやみやたらと書き散らした小説の欠片も、パソコンのメモリーにしっかり収納されている。
昔のノートをひっくり返せば、訳の分からないモラトリアムな詩の山にぶちあたる。
日々持ち歩いているネタ帳には、訪れたカフェの感想や、ふと思いついたこと、簡単な書評などがうじゃうじゃとかきつけらてている。
ここまで文字に埋もれた生活をしているくせに、私はどうも言葉に関する感覚が弱いのではないか?と最近とみに感じてしまう。
ボキャブラリーの貧弱さとは違うレベルの問題。
文字としてつづる言葉にも、口から出る言葉にも、どうも今ひとつ注意力が足りないような気がする。
新約聖書の「ヨハネ福音書」にもあるように。
『初めに言葉があった』
『言葉は光であった』
人は自分が対峙した物を言語化して理解するのだそうだ。文字にするとか話すとか、そういう事をしなくても、心の中で対象物を言葉により量化する。
言葉によって目の前の世界を切り取り、自分の中にもう一つの世界を作る。それが自分にとっての世界の全てとなる。
自分が理解できた物ばかりで構成された世界。
そう書いてしまえばそれはものすごく味気ないように思えるが、人間は自分の理解の及ばないものは受容できない。
そういう物と対峙した時の対処方として、人は『不可思議』という言葉を造り出した。訳のわからない対象を『不可思議』という言葉の範疇に分類し、それ以上の追求を停止することで、理解出来ないままでも、なんとか自分の世界の中に取り入れることに成功した。
人の心の中には、個人個人が理解出来る物しか入り込めない。
そして、入り込んだとたんに、それは現実の対象から遊離した、一種の記号と化してしまう。
私が商売道具にしている言葉というものは、人が自分の世界を作るためのアイテムであるが故に、人の心に直接語りかけることが出来るのだと思う。
小説や詩やエッセイという、言葉を使った表現方法は、既に作者の視線を以て世界を切り取ってある物だ。その文字を追う事は、作者の心の中に作られた世界を追体験することに等しい。
他人の心を覗いているのに等しい。
言葉での表現を選択した人間は、自分の心の中の世界を、万人に向けてさらけ出しているのだ。
もちろん、密かに隠している部分もあるだろう。
けれど、作者の心の中の世界を作り上げる大原則である『主観』は、紛れもなくその言葉の中に忍び込み、作者の意識の及ばない所で人々に向けて『自分はこういう人間だ』と叫び続ける。
言葉は癒しにもなり、刃にもなる。
人の心に容赦なく斬りつける刃のような言葉を、私は使いすぎてはいないだろうか。時に言いようのない不安におののく。
言葉を使うという事の恐ろしさ。
人の心に語りかける事の恐ろしさ。
恐れているだけでは前には進めない。
ある局面では、刃が必要になることもあるだろう。
それでも、出来ることならば可能な限り、私は癒す言葉を使いたい。
悲しみや憎しみや闇を描くよりは、喜びやいたわりや光を描きたい。
そのためには、言葉を使う時によく考えなければならない。注意深く言葉を選び、綴り続けたい。
もしかしたらそれは、自分の心の中の世界の暗闇を隠すことになるのかもしれない。
誰でも持っている心の闇。触れられたくない部分。
結局は、自己保身なのかもしれない。言葉の刃が自分に返ってくるのが怖いだけなのかもしれない。
それは卑怯だと言われれば、まさにその通りだろう。
人に人を癒す事は出来ないのかもしれない。
癒すことが出来ると思うのは傲慢なのかもしれない。
それでも、私は自分の言葉を綴り続ける限り、言葉を選び続けるのだろう。
刃ではなく、癒しを。
その為にあがき続けるのだろう。
言葉で作り上げた自分の心の中の世界を、もう一度言葉で切り分けながら。
必要ならば自分の心の闇をさらけ出すことも厭わずに。
自分で選んだ道だから、決して諦めたくはない。
ここまで書いておきながらなんですが……これって自分の行動を美化しているだけなのかなあ……。
まぁ、まずは人様に見せて恥ずかしくないような文章を書くことが第一なんですけどね(笑)
弱小ライターとして美術評論なぞ書いている。
また、オタク活動の一環としてファンノベルを書いたりもしている。
また、発表の当てもないむやみやたらと書き散らした小説の欠片も、パソコンのメモリーにしっかり収納されている。
昔のノートをひっくり返せば、訳の分からないモラトリアムな詩の山にぶちあたる。
日々持ち歩いているネタ帳には、訪れたカフェの感想や、ふと思いついたこと、簡単な書評などがうじゃうじゃとかきつけらてている。
ここまで文字に埋もれた生活をしているくせに、私はどうも言葉に関する感覚が弱いのではないか?と最近とみに感じてしまう。
ボキャブラリーの貧弱さとは違うレベルの問題。
文字としてつづる言葉にも、口から出る言葉にも、どうも今ひとつ注意力が足りないような気がする。
新約聖書の「ヨハネ福音書」にもあるように。
『初めに言葉があった』
『言葉は光であった』
人は自分が対峙した物を言語化して理解するのだそうだ。文字にするとか話すとか、そういう事をしなくても、心の中で対象物を言葉により量化する。
言葉によって目の前の世界を切り取り、自分の中にもう一つの世界を作る。それが自分にとっての世界の全てとなる。
自分が理解できた物ばかりで構成された世界。
そう書いてしまえばそれはものすごく味気ないように思えるが、人間は自分の理解の及ばないものは受容できない。
そういう物と対峙した時の対処方として、人は『不可思議』という言葉を造り出した。訳のわからない対象を『不可思議』という言葉の範疇に分類し、それ以上の追求を停止することで、理解出来ないままでも、なんとか自分の世界の中に取り入れることに成功した。
人の心の中には、個人個人が理解出来る物しか入り込めない。
そして、入り込んだとたんに、それは現実の対象から遊離した、一種の記号と化してしまう。
私が商売道具にしている言葉というものは、人が自分の世界を作るためのアイテムであるが故に、人の心に直接語りかけることが出来るのだと思う。
小説や詩やエッセイという、言葉を使った表現方法は、既に作者の視線を以て世界を切り取ってある物だ。その文字を追う事は、作者の心の中に作られた世界を追体験することに等しい。
他人の心を覗いているのに等しい。
言葉での表現を選択した人間は、自分の心の中の世界を、万人に向けてさらけ出しているのだ。
もちろん、密かに隠している部分もあるだろう。
けれど、作者の心の中の世界を作り上げる大原則である『主観』は、紛れもなくその言葉の中に忍び込み、作者の意識の及ばない所で人々に向けて『自分はこういう人間だ』と叫び続ける。
言葉は癒しにもなり、刃にもなる。
人の心に容赦なく斬りつける刃のような言葉を、私は使いすぎてはいないだろうか。時に言いようのない不安におののく。
言葉を使うという事の恐ろしさ。
人の心に語りかける事の恐ろしさ。
恐れているだけでは前には進めない。
ある局面では、刃が必要になることもあるだろう。
それでも、出来ることならば可能な限り、私は癒す言葉を使いたい。
悲しみや憎しみや闇を描くよりは、喜びやいたわりや光を描きたい。
そのためには、言葉を使う時によく考えなければならない。注意深く言葉を選び、綴り続けたい。
もしかしたらそれは、自分の心の中の世界の暗闇を隠すことになるのかもしれない。
誰でも持っている心の闇。触れられたくない部分。
結局は、自己保身なのかもしれない。言葉の刃が自分に返ってくるのが怖いだけなのかもしれない。
それは卑怯だと言われれば、まさにその通りだろう。
人に人を癒す事は出来ないのかもしれない。
癒すことが出来ると思うのは傲慢なのかもしれない。
それでも、私は自分の言葉を綴り続ける限り、言葉を選び続けるのだろう。
刃ではなく、癒しを。
その為にあがき続けるのだろう。
言葉で作り上げた自分の心の中の世界を、もう一度言葉で切り分けながら。
必要ならば自分の心の闇をさらけ出すことも厭わずに。
自分で選んだ道だから、決して諦めたくはない。
ここまで書いておきながらなんですが……これって自分の行動を美化しているだけなのかなあ……。
まぁ、まずは人様に見せて恥ずかしくないような文章を書くことが第一なんですけどね(笑)
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