あの日の事を忘れません。
2001年8月6日今日は広島の原爆記念日です。
私は毎年必ず広島に向かって黙祷を捧げることにしています。
もちろん9日には長崎に向かって黙祷を捧げてます。
小学校4年生の時、近所の児童館で上映された「はだしのゲン」のアニメ映画を見た時の衝撃は忘れられません。
人間があんな風に消えて行くということが、実際にあったんだということが、あまりにも怖かった。
あまりの恐ろしさに、1週間ほど夢でうなされました。未だに眠る前に思い出しては、怖くて眠れなくなったりもしています。
小学校6年生の学芸会の時。
うちの学年の担任達は、妙に演劇に意欲を燃やしていた人達で、今にして思えば、「6年生にはちと難しいんじゃないか?」というような演目を選びました。
それは「海の歌」という演目で、日本の歴史を蕩々と眺めてきた「海」の視線で、様々な変化に晒された日本人の姿を描いたものでした。
私はキャストオーディション(たかが小学校の学芸会でありながら、オーディションまでするあたりが、担任達の気合いの入り方を表してますね)の日に風邪で欠席し、演劇クラブに所属していた人間のなかでただ一人、コロス(ギリシャ古典劇で言う「その他大勢」のこと。「コーラス」の原語でもあります)の役になりました。
生意気にも役不足を嘆きながら、それでも結構気合いを入れて、担任達の熱気のこもった練習に参加していました。
本番も押し迫った、ある通しリハーサルの日。
主要キャストの女の子が欠席してしまいました。
その代役として、演出を担当していた私のクラスの担任から、急遽私が指名されました。
私のクラスの担任は非常に明るくさっぱりした性格の女性教諭で、そんな明るい性格とは裏腹に、生徒一人一人に対して細かい観察を忘れることのない、本当に素晴らしい先生でした。
どんなガキ大将でも、いじめられっ子でも、ガリ勉君でも、留学生でも、障害者でも、全ての子供に対して分け隔てなく優しく厳しく接し、それぞれの長所を必ず見つける名人でした。
私が関わってきた「教師」という職業についていた人の中で、一番素晴らしい人だったと、胸を張って言える人でした。
その先生から指名を受けた……信頼されているんだという喜びが胸に広がりました。
実を言うと、その頃から演劇が大好きだった私は、休み時間になると台本を開き、自分には関係のないシーンまで目を通し、必要のない台詞まで含めて、全ての台詞を暗記していました。(今では絶対できないなあ……脳味噌柔らかかったんだろうな)
先生は、その姿をちゃんと見てくれていたようでした。
コロスの立つ舞台脇の段から降り、ドキドキする胸を押さえながら、舞台に駆け寄って行きました。本番に出られる訳がないのは、ちゃんとわかっていました。
でも、休んでしまった同級生の代わりに、このリハーサルの間だけでも、精一杯自分のできる限りの事をやろう……そう思って一生懸命頑張りました。
休んでしまった同級生が受け持っていた役。
それが、原爆詩人と呼ばれる峠三吉さんの書いた「原爆病院より」という詩の朗読でした。
ただの朗読では無く、
「被爆者の扮装をし、前屈した姿勢で立ち、自分の朗読の順番が回ってきたら『死の国から蘇ったように』ゆらりと起きあがり、低いけれど良く通る声で、『現実に起きた事』をなんの粉飾もなく、重々しく伝える」
という、細かい演技プランがありました。
休んだ同級生は、ものすごく上手に演技していたので、「まけてなるものか」と気合いを入れ直した事を、今でも克明に覚えています。
「血と 汗と リンパ液にまみれた……」
その後、中学の時に演劇部に所属し、高校生の時には有志でミュージカルを上演し、ミュージカルの専門学校にまで通った私ですが、あれほどに役になりきりながらも冷静に演じることができたのは、あのときだけだったのでは無いかと思うほど、会心の演技でした。
被爆のせいで剥け落ちてしまった皮膚が腕からぶら下がった感触。
体に焼き付いてしまった衣服ごと、肉が剥がれ落ちようとしている激痛。
全身が燃え立つように熱く、声を発するたびに皮膚を失った体中にビリビリと痛みが走るような感覚。
体は殆ど死んでしまっていて、糸の切れた人形みたいに地面に崩れ落ちてしまいそうだけれど、それでもなお立ち上がり、自分の身に起きたことを伝えよう、伝えなければいけない……という確固とした意志。
その後の休憩時間に、先生や同級生達から褒められたことも嬉しかったけれど、なによりも一番貴重な経験だったのは、戦争の記憶のすぐ側に自分を近づけられたことだったような気がします。
中学生になってからは、演劇部で沖縄戦のお芝居に出演しました。女子挺身隊員として塹壕病院に配置され、そのあまりの悲惨さに狂気に陥る……という、なんとも難しい役だったのですが、この時も、小学校時代の経験が役にたちました。(でも、まだまだこの演技には悔いが残っているのですが……もっともっと突き詰められたのではないかと)
所詮演技は真実ではありませんから、本当に現実にその立場に立たなければ、戦災に遭われた方や被爆された方の気持ちが完全に分かる訳ではありません。
それに、戦争はまだ過去の遺物ではなく、世界中で争いのまっただ中に巻き込まれている国々・人達がたくさんいます。
そんな人達にとっては、
「芝居でやった?オレ達の気持ちが分かった気がする?ふざけんな!!」
という事になるでしょう。
でも、人間には折角想像力という素晴らしい能力があるのだから、たまにはこういう方向にその能力を向けてみてもいいんじゃないかな……と思います。
新しい世紀、本当の平和が訪れますように。
私は毎年必ず広島に向かって黙祷を捧げることにしています。
もちろん9日には長崎に向かって黙祷を捧げてます。
小学校4年生の時、近所の児童館で上映された「はだしのゲン」のアニメ映画を見た時の衝撃は忘れられません。
人間があんな風に消えて行くということが、実際にあったんだということが、あまりにも怖かった。
あまりの恐ろしさに、1週間ほど夢でうなされました。未だに眠る前に思い出しては、怖くて眠れなくなったりもしています。
小学校6年生の学芸会の時。
うちの学年の担任達は、妙に演劇に意欲を燃やしていた人達で、今にして思えば、「6年生にはちと難しいんじゃないか?」というような演目を選びました。
それは「海の歌」という演目で、日本の歴史を蕩々と眺めてきた「海」の視線で、様々な変化に晒された日本人の姿を描いたものでした。
私はキャストオーディション(たかが小学校の学芸会でありながら、オーディションまでするあたりが、担任達の気合いの入り方を表してますね)の日に風邪で欠席し、演劇クラブに所属していた人間のなかでただ一人、コロス(ギリシャ古典劇で言う「その他大勢」のこと。「コーラス」の原語でもあります)の役になりました。
生意気にも役不足を嘆きながら、それでも結構気合いを入れて、担任達の熱気のこもった練習に参加していました。
本番も押し迫った、ある通しリハーサルの日。
主要キャストの女の子が欠席してしまいました。
その代役として、演出を担当していた私のクラスの担任から、急遽私が指名されました。
私のクラスの担任は非常に明るくさっぱりした性格の女性教諭で、そんな明るい性格とは裏腹に、生徒一人一人に対して細かい観察を忘れることのない、本当に素晴らしい先生でした。
どんなガキ大将でも、いじめられっ子でも、ガリ勉君でも、留学生でも、障害者でも、全ての子供に対して分け隔てなく優しく厳しく接し、それぞれの長所を必ず見つける名人でした。
私が関わってきた「教師」という職業についていた人の中で、一番素晴らしい人だったと、胸を張って言える人でした。
その先生から指名を受けた……信頼されているんだという喜びが胸に広がりました。
実を言うと、その頃から演劇が大好きだった私は、休み時間になると台本を開き、自分には関係のないシーンまで目を通し、必要のない台詞まで含めて、全ての台詞を暗記していました。(今では絶対できないなあ……脳味噌柔らかかったんだろうな)
先生は、その姿をちゃんと見てくれていたようでした。
コロスの立つ舞台脇の段から降り、ドキドキする胸を押さえながら、舞台に駆け寄って行きました。本番に出られる訳がないのは、ちゃんとわかっていました。
でも、休んでしまった同級生の代わりに、このリハーサルの間だけでも、精一杯自分のできる限りの事をやろう……そう思って一生懸命頑張りました。
休んでしまった同級生が受け持っていた役。
それが、原爆詩人と呼ばれる峠三吉さんの書いた「原爆病院より」という詩の朗読でした。
ただの朗読では無く、
「被爆者の扮装をし、前屈した姿勢で立ち、自分の朗読の順番が回ってきたら『死の国から蘇ったように』ゆらりと起きあがり、低いけれど良く通る声で、『現実に起きた事』をなんの粉飾もなく、重々しく伝える」
という、細かい演技プランがありました。
休んだ同級生は、ものすごく上手に演技していたので、「まけてなるものか」と気合いを入れ直した事を、今でも克明に覚えています。
「血と 汗と リンパ液にまみれた……」
その後、中学の時に演劇部に所属し、高校生の時には有志でミュージカルを上演し、ミュージカルの専門学校にまで通った私ですが、あれほどに役になりきりながらも冷静に演じることができたのは、あのときだけだったのでは無いかと思うほど、会心の演技でした。
被爆のせいで剥け落ちてしまった皮膚が腕からぶら下がった感触。
体に焼き付いてしまった衣服ごと、肉が剥がれ落ちようとしている激痛。
全身が燃え立つように熱く、声を発するたびに皮膚を失った体中にビリビリと痛みが走るような感覚。
体は殆ど死んでしまっていて、糸の切れた人形みたいに地面に崩れ落ちてしまいそうだけれど、それでもなお立ち上がり、自分の身に起きたことを伝えよう、伝えなければいけない……という確固とした意志。
その後の休憩時間に、先生や同級生達から褒められたことも嬉しかったけれど、なによりも一番貴重な経験だったのは、戦争の記憶のすぐ側に自分を近づけられたことだったような気がします。
中学生になってからは、演劇部で沖縄戦のお芝居に出演しました。女子挺身隊員として塹壕病院に配置され、そのあまりの悲惨さに狂気に陥る……という、なんとも難しい役だったのですが、この時も、小学校時代の経験が役にたちました。(でも、まだまだこの演技には悔いが残っているのですが……もっともっと突き詰められたのではないかと)
所詮演技は真実ではありませんから、本当に現実にその立場に立たなければ、戦災に遭われた方や被爆された方の気持ちが完全に分かる訳ではありません。
それに、戦争はまだ過去の遺物ではなく、世界中で争いのまっただ中に巻き込まれている国々・人達がたくさんいます。
そんな人達にとっては、
「芝居でやった?オレ達の気持ちが分かった気がする?ふざけんな!!」
という事になるでしょう。
でも、人間には折角想像力という素晴らしい能力があるのだから、たまにはこういう方向にその能力を向けてみてもいいんじゃないかな……と思います。
新しい世紀、本当の平和が訪れますように。
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